現代は、何事も素早く学ぶ。ラーニングアジリティの極意

習熟のために必要な時間
1999年に公開された映画「マトリックス」の戦闘場面で、キアヌ・リーブスが演じる主人公のネオの相棒であるトリニティーがとてもクールな立ち振る舞いで活躍していました。トリニティーが操縦士が居なくなった大型軍用ヘリコプター「Bell-212」を操るために数秒で操縦スキルを脳に直接インストールするシーンがあります。単に操縦マニュアルのPDFファイルをダウンロードするのではなく、自由自在に操縦できる技能そのものを脳に入れ、それまでヘリコプターの操縦経験がなかったのに、瞬時にヘリコプターを操縦できるようになるのです。

日本では商業ヘリコプターの操縦免許を取得するには少なくとも150時間の飛行経験が必要です。映画を観ているときは、ストーリー展開に夢中でそこまで気にしていませんでしたが、
あとで考えると、こんな風に数秒でありとあらゆる技能が脳にインストールできればどんなに便利だろう!と考えました。
マトリックスのように数秒でヘリコプターの操縦を会得するところまではいきませんが、最近はさまざまな技術の移り変わりが激しいことも相まって「ラーニングアジリティ(学習敏捷性)」と呼ばれる「素早く学ぶ」ことが注目されています。
一方、古くから信じられている勉強法に「1万時間の法則」があります。これは、フロリダ州立大学のエリクソン博士が提唱した理論で、どの分野でもプロレベルになるにはおよそ1万時間の学習や練習が必要という法則です。確かに楽器の演奏や語学の学習など、習熟に練習が必要な技能は人によって多少の増減はあれど、これくらいの時間が必要かもしれません。1万時間というと、毎日1時間の練習を25年、毎日2時間の練習であれば13年ほど練習し続けるほどの膨大な練習量です。
これに対して、どんな分野でも20時間あれば、そこそこ習熟できるとの考えもあります。この「20時間の法則」は、作家・起業家のジョシュ・カウフマンが著書『First 20 Hours: How to Learn Anything…Fast』(邦訳:『たいていのことは20時間で習得できる』)で提唱したものです。カウフマンによれば、計画的な実践とフォーカスしたアプローチによって、新しいスキルを「使えるレベル」まで習得するのに必要な時間は約20時間だというのです。1万時間と比べると驚くほど少ない時間ですが、多くの人が求めているのは「プロレベル」ではなく「そこそこできる」レベルなのかもしれません。

素早く学ぶとは?
現代において、学びの機会は無数にあります。テクノロジーの進化が加速し、新しいツールやプラットフォームが次々と登場する現代では、ラーニングアジリティ(学習敏捷性)がより重視されるようになりました。ラーニングアジリティは、単に「早く学ぶ」だけでなく「効率的に学び」「学んだことを実践に応用する」能力も含まれます。
たとえば新しいデザインツールが登場したとき、以前なら専門書を購入し、講習会に参加し、実践的なワークショップで経験を積むという長い習熟期間が必要でした。しかしいまや、YouTubeの数分のチュートリアル動画を視聴し、わからないことはオンラインコミュニティで質問し、実際に仕事の中で試すという短期間でのスキル獲得が一般的になっています。
YouTubeのような動画プラットフォームの普及も、スピーディな学習方法を後押ししています。かつては書籍や高額の授業でしか得られなかった専門知識が、現代では無料で、しかも視覚的に理解しやすい形で提供されています。デザインに限らず、ありとあらゆる、ほぼすべての技能がYouTubeで学べると言っても過言ではありません。
さらに重要なのは、これらのコンテンツが「必要とされる、そのとき」に学べることです。
必要なときに必要な分だけ知識だけを取り入れられるため、学習の効率が飛躍的に向上します。ツールの機能をすべて会得しなくてもよいのです。
これまでの学びは「Just In Case」(いつか役立つかもしれないから学んで備える)でした。それが「Just In Time」(必要になったときに学ぶ)へ変化していったことが、ラーニングアジリティの核心部分と言えるでしょう。
ラーニングアジリティと言語学習の類似性
語学学習は、ラーニングアジリティの考え方が特に効果的に適用できる分野です。言語学者クリス・ロンズデールは「世界中のどんな言語でも半年で学べる」という革新的な方法論を提唱しています。この学習法は、従来の言語学習の常識を覆すもので、次のような要点があります。
- 才能は関係ない
- 生まれつきの才能ではなく、適切な方法論と継続的な実践によるもの
- 外国語漬けになる必要はない
- 伝統的な「外国語環境に身を置く」ことは必ずしも必要ではない。質の高い学習時間が重要
- 自分に関係性のあるコトで学ぶ
- 自分の興味や専門分野に関連する内容で言語を学ぶことで、やる気と語彙を効率よく習得できる
- その言語をコミュニケーションの方法として使う
- 早い段階から実際のコミュニケーションに使うことで、学習効果が飛躍的に高まる
- 無意識に理解する
- 十分な練習を積むと、文法や単語を意識的に考えなくても理解できるように
ロンズデールの方法論は、言語学習を「脳のトレーニング」ではなく「身体のトレーニング」として捉えなおしています。頭で考えるのではなく、繰り返しの練習によって脳にその言語の回路を作り、体と脳が自然と動くようになるよう仕向けるのです。
デザイナー、UXデザイナーのためのラーニングアジリティは?
◆進化するデザインツールの学習
デザインツールの進化は日々加速しており、Adobe系ツールの新機能やFigmaなど新進気鋭のツールの浸透、さらにはデザイナー向けAIツールが登場し、作業の工程、つまりはワークフローを変えつつあります。そういった環境で新しいツールを効率的に習得するには、デザインの基本原則(バランス、コントラスト、フォントなど)を理解し、ツールがなにであっても生かせる、特定のなにかに依存しない柔軟性を養うことが重要です。
◆他分野に越境する学習
デザイナーとして専門性を突き詰める人もいれば、広く周辺のことを学びつつ領域を広げる人もいます。UXリサーチ、コーディング、データ分析、ビジネス戦略など幅広い知識もデザイナーが学習することで活躍できる領域になりつつあります。プロレベルにならずとも、たとえば基本的なHTML/CSSやマーケティングの知識を持つことで、開発者やビジネスチームと円滑に連携できるようになるのです。エキスパートになる必要はなく、カウフマンの20時間法則のように、関連分野の共通言語、用語を理解することで活躍の幅が広がります。
◆フィードバックと反復こそが学習
スキル向上には、迅速なフィードバックを繰り返すことがポイントです。完璧なものを作り上げる前にコミュニティや上司や同僚、後輩や知人からもフィードバックを得て改善を重ねることで、学習を加速できます。フィードバックをダメ出しの場ではなく、学びの機会として活かし、反復を続けることで成長のスピードが加速します。
◆ユーザー中心の学習
「学ぶ人はなにからでも学ぶ」という言葉を聞いたことがあります。デザイナーにとって特にUXデザイナーにとって、ユーザーから学び続ける姿勢も重要です。どんなに優秀なUXデザイナーも初心者には戻れません。ユーザーの行動、ニーズ、感情、動機は常に変化しており、それらを敏感に察知し、デザインに反映する能力が重要です。ラーニングアジリティの高いUXデザイナーは、一度身につけた知識やパターンに固執せず、新しい気づきに基づいて自分の考えを柔軟に更新し続けます。これは単なるスキルやセンスではなく、謙虚さと好奇心に根ざした姿勢なのだと思います。
変化の激しい時代を生きる私たちの「学び」

8歳の娘が少し難しいピアノ曲を練習しています。楽譜を見て一発で弾けないので悔しいらしく、いつもゴネています。けれどもイヤイヤながらも数十分練習すると、難しかったフレーズもすらすら弾けるようになり、満足げです。私は娘と同じくらいの年齢のころ、「初見」と呼ばれる楽譜を見てすぐに弾く練習を数年間したのでコツを知っており、比較的簡単な曲であればいちど楽譜を見たり、聞いりしただけですぐに弾けます。
娘からはとても不思議がられますが「これが20時間の学習と、1万時間の学習の差だ!」と思いつつ、娘には現代を乗り切るために素早く学びつつもGRIT※(グリット)と呼ばれる「粘り強さ」も持ってほしいと考えています。今日学んだことが明日の糧となり、昨日乗り越えた困難が今日の知恵となる。そんな「素早さ」だけでは表現しきれない学びこそが、この変化の激しい時代を生きる私たちの「学び」なのかもしれません。
※GRITとは:Guts(度胸)、Resilience(復元力)、Initiative(自発性)、Tenacity(執念)の頭文字を取った「やり抜く力」という意味を持った言葉
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