あいまいになる現実世界と仮想世界、これからのVR体験と生活の変化とは
本記事は北欧のデザインメディア DeMagSign の翻訳記事です。
元記事はこちら:Will True and Virtual Reality Be No Longer Separated In The Future?
Khoraは、コペンハーゲンの精肉工場跡(Meat Packing District)にあるVRとAR制作スタジオです。彼らは、仮想現実と拡張現実の可能性と目的を探求し、様々な分野で応用できる最先端のコンテンツを開発することをミッションに掲げています。ヘルスケアからマーケティング、旅行、教育、研修まで、さまざまな分野において現実世界と仮想世界のギャップを埋めています。
今記事では、Khoraの共同創業者でCEOであるSimon Lajboschitz氏を招いて、未来のVR体験とその体験が近い将来、私たちの生活をどのように変化させていくのかをみていきます。Simonは哲学者であり、起業家でもあるというユニークなバックグラウンドと、新しいテクノロジーへの情熱をもっています。そのため彼は、バーチャルリアリティに関する問題に対して幅広い視点を持っています。
── Khoraは、統合失調症患者の幻聴治療のために、VRを使ったシミュレーション訓練「The Challenge Project」を行っていますね。VRで現実に近いビジュアルを実現ことはどれほど重要なのでしょうか? 現実に近ければ近いほど、治療の効果はあがるのですか?
これに関してはさまざまなデータがあります。もちろん、作られたビジュアルが現実に近いほど、ユーザーは共感しやすくなります。しかし、マンガのようなビジュアルの人々に共感することも非常に簡単なのです。たとえば、Pixarの『カールじいさんの空飛ぶ家』にでてくる人物を考えてみてください。Pixarの登場人物はまったく人間にはみえないのに、非常に感情移入しやすいですよね。
「不気味の谷(Uncanny Valley)」という考え方があります。これは、あまりに人間に近すぎるアバターを見ると、感情的な反応が落ち込む(谷を作る)という説です。これにより私たちは、ある種のロボットのような限りなく人間に近いなにかをみると、不安や落ち着かなさと奇妙な親近感を覚えるのです。人間との近さがこのポイントよりも減ったり増えたりすると、つまりはアバターが人間から遠くなったり近くなったりすると、感情的な反応はポジティブに変化します。ですから、人々はこの中間のポイントを嫌うのです。
このプロジェクトは、非常に幅広いターゲットグループと一緒に進めています。顔を見る人もいれば、顔はみないで声だけを聞く人もいます。多くの人は自分の頭の中で、自分が見ている人と特定の特徴を関連づけているわけではありません。たとえばなにか、または誰かを思い出そうとするとき、頭の中に浮かぶイメージは写真よりも曖昧でしょう。アバターを使えば、彼らが頭の中に持っているぼんやりしたイメージをゆっくりと置き換えることができます。
つまりアバターを使えば、人々は不定形のイメージに形を与えることができるのです。
── このプロジェクトの動画のなかで、あなたの同僚であるNicole氏が「VRは現実の世界と同じくらい、あるいは現実よりもずっと効果的であることがわかった」といっています。どのような点でVRの方が効果的なのでしょうか?
統合失調症は大変治療の難しい精神疾患です。投薬は一般的な治療法のひとつですが、深刻な副作用をともない、万人に使えるわけではありません。VRは「人々の肌の下」にはいっていきます。 VRは通常の治療として行われる会話よりも強力なツールなのです。もしかしたらいずれ、通常の治療とVR療法、そしてある種の投薬を融合して使うようになるかもしれません。細心の注意を払う必要がありますので、私たちは優れた専門家と協働し、治験を実施しています。
世界にアバター療法を実施している人は多くありません。イギリスで行われた、患者が自分たちに似たアバターとビデオ会議を行うという実験からポジティブな結果が出ていますが、これはVRではありません。しかしこの実験以外には、そもそもあまり研究がされてこなかったのです。今後、VRをより活用したアバター療法が確立できればよいと思います。
── Khoraは、ほかにも飛行機恐怖症の治療法「VRフライト体験」など、アバターを必要としないプロジェクトも進めてきました。これらのVR体験では、ヘッドセットを付けるとその世界に没入することができ、そこでみえているものに触れているような気分になります。これまで、VRは視覚と聴覚に特化していました。業界の中で、ほかの感覚を取り入れようとする試みは行われていますか?
視覚と聴覚はいずれも同じくらい重要だと思いますが、他にも大事な感覚があります。それは、自分の手と体の動きに対する感覚です。これを実現するからこそ、VRはただの映画とは違うのです。VRでは、あなたの体は体験の一部となります。
VRに触覚を取り入れようとしている人たちもいます。たとえばバーチャルでなにかに触ったら、指に振動を伝えたり指を押し返したりして、ものを触った感覚を伝えるようなことです。触覚はある種のものには大変有効なので、いずれVR体験の一部になるでしょう。
ですが、少し過大評価されているような気がしますし、必要ではないこともあります。触覚はそれを本当に必要とする業界においてのみ、VRに取り入れられるのではないでしょうか。もちろん、たとえば指の繊細な動きを訓練する必要がある外科の研修医にとっては、VRによるトレーニングに触覚が加わることは画期的なことです。
しかし複雑さをともなわないようなことには、触覚は必要ありません。私たちは、電気工事士にネジを緩めてもらい、ネジは自ら緩むという実験をしました。電気工事士にとってはドライバーを使うというのは基本的な動作なので、この場合触覚はあまり関係ありません。
── 最近では、本や瞑想アプリ、ポッドキャストや動画などによる、自己啓発の風潮が高まっていますよね。人々は自分の手足でなにかをしたいと望む傾向があるように思えます。このようなプロダクトがもっと一般的になるためには、どんな課題があるでしょうか? いつかは誰もがVRを使ってセルフケアをするようになると思いますか?
必ずそうなると思います。 しかし、統合失調症のような疾患の場合は、自宅でVR療法を実施する人がどのような人なのかをよく考える必要があります。
一方で飛行機恐怖症の人であれば、旅行には大変不自由をするけれども日常生活は問題ないということがわかっています。このような事例であれば、訓練は簡単です。Ørsted のために実施したプロジェクト「VR Flight Exposure」では、Ørstedのスタッフが心理学者の手を借りることなく飛行機に乗ることに関する不安を取り除く訓練をすることが目的でした。これは、人々が自宅できることのひとつの例です。
── VRを使えば、短時間に特定の行為を何度も繰り返すことができますね。実生活では、1日に20回も飛行機に乗ることはできません。
そうです。実生活でやってみるのが難しいことほど、VRに向いているのです。私たちはいまCapital Region Mental Health Servicesと共同で世界最大規模の、社会性に関する不安についての治験を行っています。学校に行くのが怖い子どもたちや、エレベーターに不安を覚えるような人たちを対象にプロジェクトを進めているのです。
また、私たちは「Khora Exposure」という不安に関する映像のライブラリを持っています。これには約50本のシナリオビデオと、約15の不安領域がはいっています。
── これらの体験はすべて、恐怖やトラウマを持つ人がそれを克服するために、手助けとなるようデザインがされています。一方で世の中には逆に、潜在的なトラウマを呼び起こしかねないようなVRホラーゲームのような体験もあります。世の中の会社はこうしたものから手を引くべきだと思いますか? 倫理的な観点で考えると、VRの使い道にはどんな制限が考えられるでしょうか?
だからこそ、ゲームや映画には子どもにふさわしいレーティングがあるのです。この点をみると、VRはホラー映画やホラーゲームとよく似ています。いずれも、体験したものをうまく処理できないほど幼い子どもが無理やり押しつけられるようなことがないように、正しく標示されなければなりませんし、体験するかどうかをユーザーが選べるようにしておく必要があります。
倫理的なジレンマは、ほかのコンテンツと変わらないと思います。たとえば、女性をレイプし、殺すことができるという物議を醸した「Rape Day」というゲームがありますが、これはオンラインで数千の署名が集まったことでPCゲームプラットフォームのSteamから削除されました。もしVRで、13歳の子どもがこのようなゲームに没頭してしまったとしたら、事態はもっと深刻です。政府や、コンテンツのプラットフォームはどの程度これらをコントロールすべきでしょうか? 私は、子どもも大人も自分たちで適切な判断ができるように、政府による教育がなされることが理想だと思います。いずれにせよ、ユーザーを暴力に駆り立てないようにするべきです。
新しいテクノロジーに関しては、倫理的な判断を厳しくしすぎないようにしています。誰でも、新しいテクノロジーには少し抵抗があるものです。新しいからこそ怖いと感じ、怖いと感じるからこそ倫理的に問題があるものと感じるのです。こうした感情から、新しいテクノロジーに対してはさまざまな倫理的な判断が下されます。
私は、テクノロジー自体がよいものとも悪いものとも思いません。これらの多様な新たなテクノロジーは、ゲームやポルノ、メンタルヘルスや痛みへの対処、トレーニングなどさまざまな面で人々が抱く願望を満たすために使われて、初めてその意味が見出せるのです。
──韓国のドキュメンタリーで、2017年に7歳の娘を亡くした母親が、VRによって娘と再会するという実験が行われました。これが一度きりのケースでないなら、私たちは生きていたころの記憶をもとにしたVRによって亡くなった人と会うことができるようになるでしょう。ですが、亡くなった人の記憶は誰のものなのでしょうか? 将来、自分の死に際して、死後自分の記憶を再利用する許可を与えなければならなくなるのではないかと思っています。巨大テクノロジー企業は私たちのデータ、画像、検索履歴や位置情報を集めて販売し、同意を得ることなくこっそりと改変しています。私たちに関する記憶がVRの中でレガシーとして使われ続けることを防ぐためには、記憶に関する拒否権を持たざるを得なくなるのでしょうか?
そのうちに、Facebookはユーザーの死後そのプロフィールを消去するかどうかユーザーに選ばせるようになるでしょう。韓国の実験映像をみたとき、私は本当に不気味に思いました。次に思ったのは、「偽物の娘と交流することができることは、母親にとってよくないことではないか」ということです。正直、答えはわかりません。
私たちはいつも写真やビデオを見ています。思い出を思い返したり、息子に彼が会ったことのない曾祖母を見せたりすることは幸せなことです。200年前に写真が発明されたときには、おそらく同じ疑問が生まれたでしょう。なんであれ、どこか不条理であったり奇妙であったりするように私には思えます。日本にいるデジタルな友だちや恋人、あるいはSiriのような先生、なんでもです。
── 映画『Her』のような存在ですね? ご存知ですか?
はい、大好きな映画です。プレゼンテーションのなかでたびたび言及しているくらいです。
── 私たちの仮想現実は将来どのように進化するのでしょうか? 本当の現実と交わる日が来るのでしょうか?
デジタルライフがあまりにも急速に進展しているので、人々は先入観やネガティブな姿勢を持っています。母親たちは、「私の息子はいつも本を読んでいて誇らしい」「息子はコンピューターゲームばかりしているので嘆かわしい」などというでしょう。ですが、常にゲームをしているよりも常に本を読んでいることの方がよいことなのでしょうか? 当然、どんな本か、どんなゲームか次第です。
私たちはデジタルライフというものに慣れる必要があると思います。「実際に存在するわけでもないFacebookに膨大な時間を使ってしまった。無駄な時間だった」というような言葉に表れているように、インターネットやデジタルなものすべてを偽物で無用なものと考えるのではなく、私たちはデジタルの世界を自分たちの一部として受け止めるようになるでしょう。
将来私たちは、オンラインで起こることはすべて現実でも起こることなのだと理解し始めるでしょう。90年代において、起こったネット上でのいじめはインターネット上になにかが書かれているだけで、本当のいじめとは考えられませんでした。いまでは私たちは、デジタルにおけるいじめも現実におけるいじめとなんら変わらないと捉えています。
デジタルと現実はどんどんひとつになってくると思います。デジタルのアート作品を買うことも、物理的なプロダクトを買うことと同じくらい普通になるでしょう。現実世界で見た目や服装を気にするのと同じように、デジタルでの自分の見た目やアバターを気にするようになるでしょう。デジタルと現実の間にあるようなもの、私たちが知覚する現実の境目にあるようなもの、たとえば言葉や色や感覚情報などが、どんどんひとつになっていきます。始めは恐ろしく思えるかもしれませんが、慣れていくでしょう。
デジタル上の自分を、現実の自分の延長のように思うようになります。たとえば携帯電話と同じです。私たちがなにかを忘れても、代わりに携帯電話が覚えてくれています。テクノロジーに対する依存度はもちろんあがり、多くの可能性が生まれるでしょう。しかしこれは、今後5年または10年の間に私たちが直面する巨大な変化です。現実ではあるけれど物質としては存在しない、そんなものを受け入れるようになるでしょう。
── 自分の物質的な部分である体と、形の無い魂というような、哲学的な問題になってきています。将来、哲学者たちは多くのことを考えることになるでしょう。
人々は、テクノロジーをただ消費するのではなく、どうやって使えば自分たちの人生を豊かにできるかについてもっとわかるようになると思います。いまはまだ、いつ止めたらいいかわかりません。痛み止めに対する依存のようなものです。痛み止めが完全に無くなることはなく、私たちはときに痛み止めを必要とします。ですが、いつも使う必要があるわけではありません。私たちは、本当に必要な時にだけ、テクノロジーをもっと上手に使えるようになるでしょう。
Written by Giorgia Lombardo (Design Matters)
Translation brought to you by Spectrum Tokyo